gucchiyの日記

仕事や生活の備忘録的に。

エレクトロニック・アーツ・ビクターの思い出

今はスポーツゲームで大変有名になったエレクトロニック・アーツ社。1994年ぐらいだったと思うのですが、日本法人はビクターとジョイントベンチャーしていて、エレクトリニック・アーツ・ビクターであったことをご存知でしょうか?まぁ、知らんでしょうね。

大学時代、僕はテレビゲームの仕事をしたいと考えていたので、大学がアホな大学だったということもあって、なんとか学生時代にゲームの業界で実績を作りたい、と考えていました。まずはなんでも良いからゲーム業界に入ろう、と足を踏み入れたのが、エレクトロニック・アーツ・ビクターのテストプレイヤー。時給700円とかだったような。

今でこそハリウッドばりのスタジオ形式のゲーム作成に定評のあるエレクトロニック・アーツ社ですが、当時、スーパーファミコンセガ メガドライブの時代です。プレイステーションもまだ出ていません。時は、NEC が PC エンジンってハードを、松下やサンヨーが 3DO っていうハードを出していた時代。プレイステーションセガのサターンといった当時の「次世代機」が出る前夜です。まぁ、無理やりハリウッドばりの演出をやろうとしているわけで、やりたいことはよくわかるのですが、当時のハードウェアでは少々追いついておらず、まぁ、面白くないわけなのです。

そんなエレクトロニック・アーツ・ビクターで僕がテストしたゲームのクソゲーの数々。じゃなかった、ゲームの数々の中で、最初の一本めはパワーモンガーという、名作ポピュラスに戦略要素を加えたようなシミュレーションゲームでした。

前作ポピュラスをどう変えたらこんなにクソゲーになっちゃうのか分からない迷作で、ローカライズチェックもありましたが、1番の仕事は、本当に各ステージ解けるのかどうかの確認でした。途中でどう考えても解けないステージが一つあり、アセンブラソースコードもらってステージデータがここにあるから変えてくれ、って当時の日本語化リーダーにお願いしたのがかなり大きく評価された仕事でした。日本語パッケージの SPECIAL THANKS TO にクレジット入れたもらいました。その後は、IBM PC ゲームの日本語版パッケージの評価とか・・・、ああ、そうだ、なんか日本語化するためのフォントを当時 IBM-DOS ベースだったゲームに Windows3.1 でビットマップ化した MSゴシックのフォントを使っちゃうのは問題あるんじゃないかって言うんで、使われている MS ゴシックのフォント(当時はひらがな・カタカナしか使ってない)にドットを一個だけ打ってくれ、って訳わからん仕事したなぁ。確かそのゲーム、日本じゃ500本とかって言ってたので、まぁ、随分牧歌的な時代でした。4D シリーズとか覚えている人いるかなぁ。

さて、テストプレイヤー達は、小さなタコ部屋で作業をしているわけですが、多くはフリーターでした。ときどき僕のような大学生もいたような。時給悪いので、10人とかいました。それらテストプレイヤーから契約社員に抜擢されることも多く、アシスタント・プローデューサーと言う肩書きに出世します。そうなるとアメリカばりの高いパーティションの席を一つ貰えます。タコ部屋の僕らもコーヒーは飲み放題で、職場環境はさすがの外資、素晴らしかった。

しかし、職場環境を抜きにしても、彼らは凄かったな。ゲームが熱い時代だったということもあって、ゲームにかける情熱が凄い。「なんで俺にゲーム作らせないの?」っていう感覚の人ばかりだった。同時期のテストプレイヤーは何人かアシスタント・プロデューサーに抜擢されていきました。僕も卒業とともにそうなる予定もあったのらしいのですが(あとで聞かされました)、前述の通り、アスキーの仕事が評価されてソニーに決まっていたので、それはお断りした経緯があります。

どのくらい凄いモチベーションなのかと言うとですね。例えば、僕らテストプレイヤーの場合、朝から会社に来てゲームやり続けるわけですが、お昼休みになると、外苑前近くのホカ弁で昼飯買って来て、みんなでメガドライブの「ぷよぷよ」かスーファミでスト2やるわけです。ずーっとゲームやって来たのに、休憩時間にゲームやる訳です。で、このゲームのここが良いとか、ここが悪いとか色々語るわけです。

で、お昼休みが終わると、各々持ち場のゲームテストに戻り、レポート書いて、18:00 過ぎ。そんで、帰宅がてら、みんなで新宿スポットランドでスト2とかバーチャファイターやるんですよ。あんなにゲームやったのに、更にゲームっすよ。で、俺はこういうゲーム作りたいんだとか、熱く語る青春があるわけです。とんでもないゲーム人生。でも、きっと、今のゲーム業界もあんまり変わってないんじゃないかなぁ。

僕はその後、日本を代表する一流企業、ソニーに入社するわけですが、一番最初のギャップは、実はこのモチベーションの違いです。ソニーには高いパーティションもなければ、コーヒーもありません。当時は芝浦の事業所勤務だったけど、あんまり綺麗な職場環境じゃなかった・・っていうのもあるけど、それ以上に、仕事に対する考え方が違い過ぎてびっくりしたのです。「俺にゲーム作らせないなんて」というモチベーションで仕事している環境からすると、1995年のソニーはいろんな意味で大企業で、皆普通にサラリーマンだったのです。

しかし、僕は両親が学校の教員で、サラリーマンというものを身近でみた経験がありません。あったのは、エレクトロニック・アーツ・ビクターの無茶なゲーマーたちの野望ある姿だけです。今にして思うと、それでソニー人事は僕を採用したのだと思うのですが、そういう理解さえ僕にはありませんでした。酔っ払いが酔っ払いを研究できないように、普通のサラリーマンを知らない僕は普通のサラリーマンを理解できなかっただろうと思います。

エレクトロニック・アーツ・ビクターで活躍した熱い彼らが、今どうしているのか・・僕はソニーの業務に没頭する中ですっかり彼らとの関係を薄くしてしまいました。でも、今なお、あの頃のゲームに対する思いは、僕のコンピュータ人生の根幹そのものです。あのような「凄み」が時代を変えるチームを作ることは今を持っても信じて疑いません。

エレクトロニック・アーツ・ビクターは、その後スクエアとの提携に切り替え、更にその後、本国エレクトロニック・アーツ社に吸収されたと聞きます。あの時のみんな、特に面倒見てもらった渋谷さん、元気かなぁ。