アスキーの思い出
昔話。インターネットもまだ世には知られていない(存在はしたけど)1993年ぐらい、僕は東京電機大学工学部に在籍しながら、アスキー社月刊誌『テックウィン』(旧テックログイン)でのゲーム連載企画のプログラム担当をやっていました。『テックウィン』は最初『テックログイン』という雑誌で、アスキーの伝説的なゲーム雑誌、『ログイン』の技術系「ものづくり」にとんがったスピンアウト的位置づけの雑誌です。
ログイン編集長だった河野真太郎さんがそのまま編集長をなされています。また、副編集長にはこれまたログイン有名編集であった山川真太郎さん。河野さんに新宿で焼肉奢っていただき、そこから実家の相模原市までなんとタクシーで送ってもらった思い出があるのんですが、タクシーの中で河野さんが語った言葉が忘れられません。
『山口くん、僕はプログラマは作家に近いと思う。作家は名前で売る。きっとプログラマも名前で売る時代がくる。テックログインはそんなプログラマ達のトキワ荘物語をやりたいんだ』
今なお、僕はこの河野さんの言葉を胸に IT フィールドで仕事しているような気がします。モノづくりする精神こそ、IT エンジニアの本質。ベンチャーのプログラマもオープンソースもすべて根はそこにある、と。
さて、そんな『テックログイン』で持っていた連載がこちら。
写真の右側、俺。若いなー。そしてやせてるなーw お隣におられるのは、PC ゲームの一時代を作ったアートティング『アトラス』のゲームデザイナー山口 洋一さんです。実は僕も山口ですので、二人で『山口組』って言われてました。
担当した連載ゲームは『Village People』ポピュラス風(古いか)のクォータービュー画面で村を作るシミュレーション。当時新婚で、近く生まれる子供に気分も上がる山口 洋一さん、いろんな村人キャラクターを結婚させて、いろんな子供が生まれる・・みたいなフィーチャーを検討していました。で、最終的にいろんな村人キャラクターたちが自律的動き出して村を作っていく・・というイメージだったんじゃないかと僕は想像しています。連載型でちょっとずつゲームを作るというい企画で、とうとう最後まで行き着かなかったってこともあって、山口洋一さんがどう考えていたのかは分からないんですけどね。最初は MS-DOS 版でこさえました。いろんな顔のパーツの画像をもらって、その組み合わせがいろいろ出てくる、カードゲームみたいな。基礎プロトタイプみたいな奴が最初に作ったゲームでした。確か Borland C++ で組んだわけですが、MS-DOS のゲームって、今のようにグラフィック用の API とか揃っているわけではなく、自分でハードウェアを制御して画像を作る必要があったので、ハードウェアの仕様書と睨めっこして自分なりにチューニングするところに「職人芸」がありました。
今も残るパソコンの文化の一つに、ユーザー向けのアプリと共に、開発環境もまたユーザーに提供する、というものがあります。プログラミングの内容こそ昔は強くハードウェアに依存していて、設計はとても難しかったのですが、ユーザーとプログラマはずっと近い存在でした。プログラマがユーザー寄りだったというよりは、ユーザーがプログラマ寄りだった、という方が正しいかも知れませんね。多少コンピュータについて勉強しないとアプリを使うことさえできなかった。
『テックログイン』のコンセプトだった『プログラマのトキワ荘物語』
今なお、僕はこの河野さんの言葉を胸に IT フィールドで仕事しているような気がします。
モノづくりする精神こそ、IT エンジニアの本質。ベンチャーのプログラマもオープンソースもすべて根はそこにある、と思うのです。
アスキーは少なくとも1993年当時は、ソフトバンクかアスキーか、と言われるぐらいイケイケなベンチャーだったんですが、その後、事業拡大の一環で行われた映画事業などへの投資が焦げ付いて、業界における存在感を失っていきます。
経営者としての手腕は、西和彦より孫正義が上手だった、ということなのかも知れません。
しかし、アスキーが当時の IT 技術者に与えた影響は大きかったと思う。ソフトバンクのそれよりは、ずっと自由闊達にのびのびとエンジニアは育ったのだと思う。アスキーの雑誌はそんな雑誌でした。
今や、その場はオープンソースや数多ある IT ベンチャーに移ったけども。その本質は十分予言していた会社だったな、と。テックログインでの経験を振り返って思うのです。