gucchiyの日記

仕事や生活の備忘録的に。

iPhone のスクリーンタイム設定に関わらずウェブサイトを見る方法

やあやあ、うまいこと iPhone 持つことに成功した中高生の諸君、元気にやってるかな?ふむふむ、親にスクリーンタイムを仕掛けられて、1時間しか SNS や動画を見ることが出来なくなっちゃった?おやおや、可哀そう。今日はおじさんが、スクリーンタイムの制限時間を超えてもサイトを見ることが出来る、とっておきの方法を教えてあげよう。有名どころの大抵のアプリは、アプリが動かなくなってもサイトのサービスがあるからね。ん?アプリだけじゃなくてブラウザ(safariなど)も時間制限になってしまった?大丈夫!以下の方法でブラウザが時間制限中でもサイトを閲覧できるよ!

  1. 事前
    1. Safari を使って、スクリーンタイムアウトの制限がかかっても見たいサイトへアクセス、ログイン → ユーザー名、パスワードを登録する
    2. 設定 → 「パスワードとアカウント」→ 「WebサイトとAppのパスワード」から先ほど設定したサイトが登録されていることを確認
  2. スクリーンタイム発動後
    1. 設定 → 「パスワードとアカウント」→ 「WebサイトとAppのパスワード」から先ほど設定したサイト → 「WEB サイトのパスワードの変更」をタップ

以上で、なんとびっくり、見たいサイトが表示されます!もちろんログインも可能です。

ただし、YouTube 等の Google サービスは、Google アカウントで一本化されちゃうみたいなので、ご注意ください(つまり、YouTube 単体で「パスワードとアカウント」 → 「WebサイトとAppのパスワード」に登録されない)。しかし、うまくすると YouTube もに登録されるようではあります。「パスワードとアカウント」内にある「アカウント」に Google が登録されていると NG ?なのか?この辺り、分かる方おりませんか!?

本当にやりたいこと

実は、私は某私立中学へ通う娘を持つ父親だったりします。いやこれまずくないですか?上記のスクリーンタイム回避策は娘がどこからともなく編み出した方法らしく、恐らくは中学生間で知られた情報なのかと思われます。すでに、このガサツな「Web サイトのパスワードの変更」機能(単に該当サイトにジャンプするだけ)について Apple のサポートへはクレームしているのですが、クレームの数が多くならない限りは開発側で対応しないのではー・・のようなことを言われました。本件に問題を持つ親御様に於かれましては、ぜひアップルサポートに本件を直ちに修正するようにクレームしましょう!⇒ iPhone フィードバック

エレクトロニック・アーツ・ビクターの思い出

今はスポーツゲームで大変有名になったエレクトロニック・アーツ社。1994年ぐらいだったと思うのですが、日本法人はビクターとジョイントベンチャーしていて、エレクトリニック・アーツ・ビクターであったことをご存知でしょうか?まぁ、知らんでしょうね。

大学時代、僕はテレビゲームの仕事をしたいと考えていたので、大学がアホな大学だったということもあって、なんとか学生時代にゲームの業界で実績を作りたい、と考えていました。まずはなんでも良いからゲーム業界に入ろう、と足を踏み入れたのが、エレクトロニック・アーツ・ビクターのテストプレイヤー。時給700円とかだったような。

今でこそハリウッドばりのスタジオ形式のゲーム作成に定評のあるエレクトロニック・アーツ社ですが、当時、スーパーファミコンセガ メガドライブの時代です。プレイステーションもまだ出ていません。時は、NEC が PC エンジンってハードを、松下やサンヨーが 3DO っていうハードを出していた時代。プレイステーションセガのサターンといった当時の「次世代機」が出る前夜です。まぁ、無理やりハリウッドばりの演出をやろうとしているわけで、やりたいことはよくわかるのですが、当時のハードウェアでは少々追いついておらず、まぁ、面白くないわけなのです。

そんなエレクトロニック・アーツ・ビクターで僕がテストしたゲームのクソゲーの数々。じゃなかった、ゲームの数々の中で、最初の一本めはパワーモンガーという、名作ポピュラスに戦略要素を加えたようなシミュレーションゲームでした。

前作ポピュラスをどう変えたらこんなにクソゲーになっちゃうのか分からない迷作で、ローカライズチェックもありましたが、1番の仕事は、本当に各ステージ解けるのかどうかの確認でした。途中でどう考えても解けないステージが一つあり、アセンブラソースコードもらってステージデータがここにあるから変えてくれ、って当時の日本語化リーダーにお願いしたのがかなり大きく評価された仕事でした。日本語パッケージの SPECIAL THANKS TO にクレジット入れたもらいました。その後は、IBM PC ゲームの日本語版パッケージの評価とか・・・、ああ、そうだ、なんか日本語化するためのフォントを当時 IBM-DOS ベースだったゲームに Windows3.1 でビットマップ化した MSゴシックのフォントを使っちゃうのは問題あるんじゃないかって言うんで、使われている MS ゴシックのフォント(当時はひらがな・カタカナしか使ってない)にドットを一個だけ打ってくれ、って訳わからん仕事したなぁ。確かそのゲーム、日本じゃ500本とかって言ってたので、まぁ、随分牧歌的な時代でした。4D シリーズとか覚えている人いるかなぁ。

さて、テストプレイヤー達は、小さなタコ部屋で作業をしているわけですが、多くはフリーターでした。ときどき僕のような大学生もいたような。時給悪いので、10人とかいました。それらテストプレイヤーから契約社員に抜擢されることも多く、アシスタント・プローデューサーと言う肩書きに出世します。そうなるとアメリカばりの高いパーティションの席を一つ貰えます。タコ部屋の僕らもコーヒーは飲み放題で、職場環境はさすがの外資、素晴らしかった。

しかし、職場環境を抜きにしても、彼らは凄かったな。ゲームが熱い時代だったということもあって、ゲームにかける情熱が凄い。「なんで俺にゲーム作らせないの?」っていう感覚の人ばかりだった。同時期のテストプレイヤーは何人かアシスタント・プロデューサーに抜擢されていきました。僕も卒業とともにそうなる予定もあったのらしいのですが(あとで聞かされました)、前述の通り、アスキーの仕事が評価されてソニーに決まっていたので、それはお断りした経緯があります。

どのくらい凄いモチベーションなのかと言うとですね。例えば、僕らテストプレイヤーの場合、朝から会社に来てゲームやり続けるわけですが、お昼休みになると、外苑前近くのホカ弁で昼飯買って来て、みんなでメガドライブの「ぷよぷよ」かスーファミでスト2やるわけです。ずーっとゲームやって来たのに、休憩時間にゲームやる訳です。で、このゲームのここが良いとか、ここが悪いとか色々語るわけです。

で、お昼休みが終わると、各々持ち場のゲームテストに戻り、レポート書いて、18:00 過ぎ。そんで、帰宅がてら、みんなで新宿スポットランドでスト2とかバーチャファイターやるんですよ。あんなにゲームやったのに、更にゲームっすよ。で、俺はこういうゲーム作りたいんだとか、熱く語る青春があるわけです。とんでもないゲーム人生。でも、きっと、今のゲーム業界もあんまり変わってないんじゃないかなぁ。

僕はその後、日本を代表する一流企業、ソニーに入社するわけですが、一番最初のギャップは、実はこのモチベーションの違いです。ソニーには高いパーティションもなければ、コーヒーもありません。当時は芝浦の事業所勤務だったけど、あんまり綺麗な職場環境じゃなかった・・っていうのもあるけど、それ以上に、仕事に対する考え方が違い過ぎてびっくりしたのです。「俺にゲーム作らせないなんて」というモチベーションで仕事している環境からすると、1995年のソニーはいろんな意味で大企業で、皆普通にサラリーマンだったのです。

しかし、僕は両親が学校の教員で、サラリーマンというものを身近でみた経験がありません。あったのは、エレクトロニック・アーツ・ビクターの無茶なゲーマーたちの野望ある姿だけです。今にして思うと、それでソニー人事は僕を採用したのだと思うのですが、そういう理解さえ僕にはありませんでした。酔っ払いが酔っ払いを研究できないように、普通のサラリーマンを知らない僕は普通のサラリーマンを理解できなかっただろうと思います。

エレクトロニック・アーツ・ビクターで活躍した熱い彼らが、今どうしているのか・・僕はソニーの業務に没頭する中ですっかり彼らとの関係を薄くしてしまいました。でも、今なお、あの頃のゲームに対する思いは、僕のコンピュータ人生の根幹そのものです。あのような「凄み」が時代を変えるチームを作ることは今を持っても信じて疑いません。

エレクトロニック・アーツ・ビクターは、その後スクエアとの提携に切り替え、更にその後、本国エレクトロニック・アーツ社に吸収されたと聞きます。あの時のみんな、特に面倒見てもらった渋谷さん、元気かなぁ。

その後は順調っすよ

少しネガティブなこと書いた様な気がするが、
その後はかなり順調ですよ。
顧客もわんさと持たされてますし。
まだまだ勉強中に変わりはありませんが、
さんざんやってきた PM 業務だからね、比較的、慣れたもんですわ。

驚かせてたらスマン。
いや、確かにその時は大変だった・・

CakePHP で HTML メールの送信

解は、Email class の emailFormat で html を指定する。終わり。

use Cake\Mailer\Email;

・・・

$message = "<html>\n"
    ."<h1>テスト</h1>\n"
    ."<p>HTMLメールのテスト</p>\n"
    ."</html>";
$email = new Email('default');
$email->from(['web@idea-tech.sakura.ne.jp' => 'Idea-tech'])
    ->to('gucchiy@gmail.com')
    ->subject('テストメール')
    ->emailFormat('html')
    ->send($message);

HTML のコードを入れるのはいろいろアレなので、View を使っても良い
と言うか、そうしないといろいろ大変そうだ。
リンク先『テンプレートメールの送信』を参照ね。

大ピンチでした・・

戯言。

ここ4ヶ月あまり、とてもとても忙しかった。
と言うか、実生活として大ピンチだった。
転職先のテストが通らない、通らない・・
「次でパスしなければ今後について考える」とまで上司に言われ、
本当にもうダメか、早々に次を考えねばならんか、と。

しかし・・、なんとかかんとかテスト通りました。
こういうプレッシャーがあると、もうダメね。
他のことが手につかない。

悪い時には悪いことが続くもので、もう一つ持っていた、ウェブサービスのプロジェクトが完全に座礁
もうまいったまいった。
しかし、このプロジェクトを通してCakePHP をやり直せたのはよかった。

アイディア&&テクノロジーサイト運営を、さくらの VPS 化しました。
もちろん、マルチドメインにしているので、他のサービスも立ち上げられます。
Let's Encrypt による SSL 化対応完了。ついでに・・dig すると秘密が見えるかも。

HTTP(S)やSSLなどのインターネットな知識からプログラミングまでものすごくやり直した4ヶ月ではありました。
これを糧に、またブログやサービス開発に力を向けましょう・・

アスキーの思い出

昔話。インターネットもまだ世には知られていない(存在はしたけど)1993年ぐらい、僕は東京電機大学工学部に在籍しながら、アスキー社月刊誌『テックウィン』(旧テックログイン)でのゲーム連載企画のプログラム担当をやっていました。『テックウィン』は最初『テックログイン』という雑誌で、アスキーの伝説的なゲーム雑誌、『ログイン』の技術系「ものづくり」にとんがったスピンアウト的位置づけの雑誌です。
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ログイン編集長だった河野真太郎さんがそのまま編集長をなされています。また、副編集長にはこれまたログイン有名編集であった山川真太郎さん。河野さんに新宿で焼肉奢っていただき、そこから実家の相模原市までなんとタクシーで送ってもらった思い出があるのんですが、タクシーの中で河野さんが語った言葉が忘れられません。

『山口くん、僕はプログラマは作家に近いと思う。作家は名前で売る。きっとプログラマも名前で売る時代がくる。テックログインはそんなプログラマ達のトキワ荘物語をやりたいんだ』

今なお、僕はこの河野さんの言葉を胸に IT フィールドで仕事しているような気がします。モノづくりする精神こそ、IT エンジニアの本質。ベンチャープログラマオープンソースもすべて根はそこにある、と。

さて、そんな『テックログイン』で持っていた連載がこちら。
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写真の右側、俺。若いなー。そしてやせてるなーw お隣におられるのは、PC ゲームの一時代を作ったアートティング『アトラス』のゲームデザイナー山口 洋一さんです。実は僕も山口ですので、二人で『山口組』って言われてました。
担当した連載ゲームは『Village Peopleポピュラス風(古いか)のクォータービュー画面で村を作るシミュレーション。当時新婚で、近く生まれる子供に気分も上がる山口 洋一さん、いろんな村人キャラクターを結婚させて、いろんな子供が生まれる・・みたいなフィーチャーを検討していました。で、最終的にいろんな村人キャラクターたちが自律的動き出して村を作っていく・・というイメージだったんじゃないかと僕は想像しています。連載型でちょっとずつゲームを作るというい企画で、とうとう最後まで行き着かなかったってこともあって、山口洋一さんがどう考えていたのかは分からないんですけどね。最初は MS-DOS 版でこさえました。いろんな顔のパーツの画像をもらって、その組み合わせがいろいろ出てくる、カードゲームみたいな。基礎プロトタイプみたいな奴が最初に作ったゲームでした。確か Borland C++ で組んだわけですが、MS-DOS のゲームって、今のようにグラフィック用の API とか揃っているわけではなく、自分でハードウェアを制御して画像を作る必要があったので、ハードウェアの仕様書と睨めっこして自分なりにチューニングするところに「職人芸」がありました。

今も残るパソコンの文化の一つに、ユーザー向けのアプリと共に、開発環境もまたユーザーに提供する、というものがあります。プログラミングの内容こそ昔は強くハードウェアに依存していて、設計はとても難しかったのですが、ユーザーとプログラマはずっと近い存在でした。プログラマがユーザー寄りだったというよりは、ユーザーがプログラマ寄りだった、という方が正しいかも知れませんね。多少コンピュータについて勉強しないとアプリを使うことさえできなかった。

『テックログイン』のコンセプトだった『プログラマトキワ荘物語』

今なお、僕はこの河野さんの言葉を胸に IT フィールドで仕事しているような気がします。
モノづくりする精神こそ、IT エンジニアの本質。ベンチャープログラマオープンソースもすべて根はそこにある、と思うのです。

アスキーは少なくとも1993年当時は、ソフトバンクアスキーか、と言われるぐらいイケイケなベンチャーだったんですが、その後、事業拡大の一環で行われた映画事業などへの投資が焦げ付いて、業界における存在感を失っていきます。
経営者としての手腕は、西和彦より孫正義が上手だった、ということなのかも知れません。

しかし、アスキーが当時の IT 技術者に与えた影響は大きかったと思う。ソフトバンクのそれよりは、ずっと自由闊達にのびのびとエンジニアは育ったのだと思う。アスキーの雑誌はそんな雑誌でした。
今や、その場はオープンソースや数多ある IT ベンチャーに移ったけども。その本質は十分予言していた会社だったな、と。テックログインでの経験を振り返って思うのです。